木曜倶楽部

しがない一オタクの雑文。腐っております。

とうらぶという「ゲーム」について

私は刀剣乱舞というジャンルを好む。キャラクターが優秀だ。そこから発するメディア、映画や舞台やアニメや漫画などの完成度合いも高く、特に映画は審神者でなくとも一つの歴史のイフとして楽しめる内容であった。

 

私は刀剣乱舞というゲームを厭う。キャラクターだけが優秀だ。それに連なるゲーム性、ゲーム内で完結するストーリー、どれもが薄味だ。京都人の味付けでもここまで薄くはないだろうと思う。

正直なところ、刀剣乱舞というゲームの何が楽しいのかまるで理解ができないのだ。景趣とこのキャラが合うか考えるのが楽しい、と言われても、「それなら家具を置けるとか箱庭要素が欲しい」と思うし、集めて育てるのが楽しい、と言われても「それならレベル関係のやつ以外にもスロットにつけられる固有技とか欲しい」と思う。キャラ同士の関わりを見るのがモチベになると言われても「それメディアミックス作品でめっちゃ見た…」となる。たしかに本丸それぞれの関係性を楽しむ思考は理解できるが、極論を言えばゲームをやらなくてもできるであろう。

反駁をぶつけるだけでは無責任であるから、私が刀剣乱舞を厭う理由について話そう。

戦闘中に何もできないことだ。

プレイヤーが、ゲームの醍醐味たる戦闘時に、何も動けないのだ。私がまともに続けているゲームは、一応のラインで口出しができる。某英霊だってコマンドやらスキルがある。お空にはアビリティがあり召喚石がある。アズレンは自分で操作できるし、ドルフロは地域攻略を考えることができるしスキルもある。コンシューマなら尚更それ以上である。アーマードコアなどやることが逆に多すぎて手が痛くなるほどだ。

だが、刀剣乱舞は何も動けない。進退判断と一応の回復権限、あとは陣形判断こそあれ、前者二つはリザルト画面に於いて表示される戦後処理、陣形判断に至っては索敵の運である。運である仕様上、不利を選んでもそう壊滅せず、陣形によるステータスの伸びも対して大きくはない。プレイヤーの必要性が見えないのだ。

私にとってゲームとは、プレイヤーは主人公に感情移入し、もしくは天からの見えざる手となって、別世界たる彼らと共に戦う物だ。そして勝ち得た彼らからの親愛の情や彼らの強さを受け取るのが楽しいのだ。強い敵に勝つために努力し、そして強くなったユニットとプレイヤーが勝てなかった敵に勝つ瞬間。絆を深めに深め、ユニットが吐露する親愛を見た瞬間。あぁ、なんと痛快!なんと感動的なことか!

…ただ、ゲームをしない人種がとうらぶにハマるのはプレイヤーの必要性がないからこそかもしれない。水槽を眺める心持ち、漫画を読む心持ちであれて、その上でキャラクターが主と慕ってくれている→つまり自分も登場人物になれる。なるほどそれは楽だ。指示を出す事が責任や負担に感じる方なら大変楽であろう。

 

もう一つ、別軸で私がゲームにもとめるのは爽快さである。上記の報酬も、ゲームシステム自体に欠陥が、やりづらさがあればそれはリターンに合わない。ゲームの醍醐味としてのやりづらさは許容する、むしろ歓迎するが、単純にストレスを感じさせるだけの欠陥はとんでもなく楽しさを損なう。

それも刀剣乱舞にはない。作業が単調すぎるのだ。出撃してサイコロふってマスに進んで陣形決めて戦闘を眺めてリザルトして進退判断しての繰り返しである。それをとんでもない回数こなさなければならない。コンシューマやらのレベル上げもそうではあるが、コンシューマには前述のプレイヤーの必要性があるし、どれほどのクソゲーでも刀剣乱舞のような効率の悪さはなかなか見ない。

しかもさらに悪いことに、刀剣乱舞には最悪の要素がある。サイコロだ。サイコロによって進むマスが違い、ボスにたどり着けない事がままある。運でボスにたどり着けないダンジョンとはなんだ。レベリングに於いても、ゲームの進行に於いても、悪感情しか湧かないであろう。運が悪ければステージ進行がプレイヤーにはどうにもならぬ要素で妨げられることになる。たしかにコンシューマでも神に祈りを捧げて運勝負というのはよくあるが、それはプレイヤーの選択だ。育成不足で一か八かの時、状態異常が入らないと死ぬが確率が不安な時、攻撃が外れそうな時、会心のいちげきをいのる時、ロマン砲に想いを込める時。これら全てプレイヤーの裁量であり、プレイヤーの落ち度であり、プレイヤーの楽しみだ。運要素はシステムに強制されるものではない。もし強制されたとしても進行に不便のない運でなければならない。カジノとか。

 

プレイヤーを排したゲームはゲームではない、そんなものアニメや映画や小説で十分だと私は思う。あきらめてキャラカタログとして眺めることしかないのだろうか?